いつまで。
…いつまで俺、れんちゃんの2ばんでおったらええん?
突然、背後から声がして
振り向くと
森さんが泣いていた。
いつもみたいに、左手で無造作にバイオリンのネックを握りしめ、右手に丸めた楽譜。
耳に自分の鼓動が響く。
え、いきなり、なに?
なんで?
1ばんに、なられへんねやったら、もう俺を解放してくれや…
鼓動が早くなる。
耳の中、が、ガンガンうるさい。
待って。
待ってくれ。
なんでそうなるんだよ。
2ばんってなに。
解放ってなに。
嘘やろ?
俺、森さんのこと、縛ってない、順番つけたりしてない。
…してないつもりだ。
解放って?
俺が森さんを泣かしてるの?
解放って?
もう、会えないの?
なんで?
森さん。
泣かないでよ。
…目覚めは最悪だった。
森さんは鼻歌混じりでペグを調整しながらチューニングに余念ない。
鼻歌がVIVA BROTHERSなとこがまたなんとも。
「今日はなにしよ~かなあ」
いつもと変わらずテンションやや高め気分上々。
よもや俺の夢の中であんなセリフを吐いたとは思うまい。
「午前中からうかない顔ですな」
「…夢見が悪くて」
「エロ?グロ?」
うーん。どちらかといえばグロ?(笑)
有り体に夢の話をすると森さんが爆笑した。
「笑うとこちゃいますよ」
「いやいや…笑えるって…」
予想外の反応に面食らったことには気づかれなかったと思う。
そんなにおかしい夢だったろうか。
夢とはいえ、俺はかなりショックだったし、だからこそ本人に話した。妙にリアルな夢は現実に起こりそうな不安を常に孕む。
当事者に話すことで気分的予防線になることは実証済みだ。
森さんはまだ笑っている。
「笑える…」
森さんが、はあ、と一息ついて、ようやく笑いを止めて俺を見た。
目が笑っている。
「アホな夢や」
「そないゆわんといて下さいって…俺結構ショックやったんやから」
「俺が2ばん?アホなことゆうな」
え?
「俺は1番のはずやけど?」
森さんが、ニヤリと笑った。
チューニングの終わったバイオリンを無造作に掴むと自然な動きで構え、
「そやんな?」
と笑い、
独特の呼吸で滑り出す音律。
水上の音楽、アンダンティーノ。
素朴で軽快、どちらかというと牧歌的なフレーズが、またも森アレンジでまったく違う雰囲気を帯びる。
音符1個ずつが、まるで水をたっぷり含んだ水風船のようだ。
震え、潤い、今にも割れそうな緊張感と期待感を高める。
容赦なく甘美なメロディを弾き出す水の珠…
A主題を静かに終わらせると、森さんが、またニヤリと笑った。
「な?」
確かに。
確かに俺の何かをこんなに掴む音楽は森さんにしか奏でられない。
「なにが、な、ですか…ヘンデル草葉の陰で泣いてますよ」
「泣かせとけ。音楽は流動していくもんや。作り手を超えて進化するもんやろ」
流動し、進化する。
ゆく音楽の流れは絶えずして、しかも同じ音楽に非ず…
再度、アンダンティーノ。
いや。
アンダンティーノにラルゴが混じりこんだ。
同じヘンデルの手になるクセルクセスの中の一曲。
俺が初めてこの曲を聞いたのはキャスリーン・バトルの歌う『オンブラマイフ』だった。
「れんちゃん、ほら、来て」
弓を止めずに森さんが言った。
音同士が溶け合うこの感覚。
いったいどこが揺さぶられてこんなに美しく感じるのだろう。
鳥肌がたって、体の芯が痺れる。
そう。
確かに。
あなたは正しい。
プロ並みの演奏技術があるわけではない。
誰かに聴いて欲しいと切望するわけではない。
ただ、自分のために。
自分と、そして今は俺のためだけに。
自分の中に「湧く」音楽をただ溢れるままに「垂れ流し」ているのだ。
あなたに代わるものはどこにもない。
俺を認め俺を震わせ俺を奏で俺を赦す。
森さん、あなたは正しい。
リフレインを豊潤に歌い、ritをたっぷりとって、精密に丁寧に細心の注意を払って最後のGをpppで。
さらにクレッシェンド、デクレッシェンド。
静かに、こだまのように消えていく音。
しばし、静謐。
「どないやヘンデル」
森さんが呟いた。
ヘンデルはどうか知らないが、少なくとも俺は。
「確かに、あんたに変わる人がいないという意味では1番ですね」
「素直ちゃうなあ…正直に言えや、森さん大好きって」
死ね(笑)
っつか
そんなことうっかり口にして
それがコンタの耳に入ったりしたら
俺が殺される。
これはマジで。
コンタも知ってるからね。
コンタが森さんになれないこと。
森さん、ずっと俺と弾いてね。
絶対、口に出しては言わないけど。
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